「現代アートとファイバーアート」

3rd EUROPEAN TRIENNALE TEXTILE AND FIBER ART (ラトビア)-International conference on TEXTILE and FIBER ART- にて発表(2007年7月7日)




要約 

 ファイバーアートには懇々と潜む大きな「矛盾(paradox)」がある。それ故、もだえ、苦しみ、儚く、行き先を模索する。だからこそ生命力に満ち溢れ、瞬間的に輝くのだ。
 現代美術の中において、完成した作品をすべてとするだけでなく、その行程、素材、技術などのいわば作品における経緯を重視していくという行為はすでにデュシャン(Marcel Duchamp 1887~1968)以降盛んに行われてきた。むろん現代においてもその流れが中心であるといってもいいだろう。
 しかしながら、ここ日本においては芸術といえばもっぱら工芸が主体となってきた。第二次世界大戦後、西洋文化の大波にのまれ、芸術=工芸という方程式は崩れてしまったが。
 工芸は日常の生活をより潤わせるものとして、あくまでも生活に密着した芸術であり、崇高な立場にあった。専門の職人たちに分業化され、一つの作品に多くの職人の技術の粋が集約された。職人は素材と向き合い、その素材の可能性を求め格闘し、分業化ゆえに行程にこだわり、一方、作品は生活の中に溶け込み、崇められ、人間社会の一つの機能として成り立っていた。すなわちコンセプトなど最初からありきなのである。いま、現代美術が成し遂げようとしている行為は、すでに工芸の世界ではごく当たり前なのである。
 1960年代以降、工芸とくに陶芸と染織においては大きな矛盾をかかえるムーブメントが盛り上がった。現代美術が獲得しようとする工芸的感覚を再度後追いするという行為である。工芸が現代美術化し、工芸に対し矛盾を突きつけた。現代美術が工芸化をもとめ、そんな現代美術を工芸が追いかけた。ここに大きな矛盾が生まれ、それを受け止めれなかったように「ローザンヌビエンナーレ / Lausanne Biennale (スイス)」は破綻した。以降、ファイバーアートの盛んな日本においては、この矛盾を検証しつつも脈々とその活動は途絶えることなく続いている。
 「ローザンヌビエンナーレ」以降の我々世代にとってファイバーアートを定義するとしたらいったいどういうことであろう。すでにボーダレスとなった現代において我々、テキスタイルアーティスト、ファイバーアーティストにとってそのアイデンティティーはどこにあるのか。
 ここに我々世代の大きな意味がある。それは「矛盾」である。現代美術とファイバーアートのあいまいな境目にたち、この「矛盾」を常に正確に見据え、どちらにもこびいることなく両存させることが必要である。これと同様、「伝統と革新(tradition and innovation)」についても同じことが言えよう。それらが両存し、「矛盾」がうまれるからこそ現代におけるファーバーアートはその生命力を爆破させる。そして行き先を模索することに我々世代の使命がある。