試論「オタク文化と工芸」

 

 明治以前、日本では「美術」は「工業」の範疇にあった。「工芸」も「工業」の範疇にあり、「美術」と「工芸」は明治以降に作られた言葉でありジャンルである。「工業」とは現在の機械生産のみを意味する言い方ではなく、掛け軸、屏風、襖絵、器、皿などのように「工芸」に大変近いニュアンスとして使われていた。タブローとしての絵画のあり方はあくまで西洋を基軸とした美術史のごく近代的な考え方にほかならない。

 私は工芸のその中でも染織というジャンルで制作をしてきたが、この西洋の美術史を中心とした考え方に疑問を抱くようになった。かといって、私はナショナリストでもなく、日本の工芸至上主義を訴えるつもりはない。なぜなら、我々日本人にとって西洋を中心とした考え方は美術のみならず、生活のあらゆる面に浸透し、その合理性の享受を得ていることは紛れもない事実であるからである。

 ただ、私は工芸の持つ理想に取り憑かれている。個人の自己決定や生活の多様性が当然のこととして成立する現代のポストモダン状況下において、また一方でオウム真理教事件や9.11同時多発テロに象徴するようにポストモダンの終焉の兆しすら感じる今日、国家のイデオロギーをも超えた人類が共有できる物語は人間の日常生活のごく近くに潜んでいると私は考える。人間の日常生活を起点とするのは工芸のお家芸であり、日常生活で人間に密接に関わる工芸にこそ人類普遍の理想があるに違いない。「美術」を頂点とする芸術のありかたはもうすでに崩壊しているのである。たとえば、「もの派」が自己消滅に近い方法でしか芸術を表現できなかったのは彼らにとっての起点が「美術」であったからではないだろうか。「もの派」の示した芸術は工芸においては当然の前提としてすでに表現されていたのである。

 私にとって工芸と同様に切り離せないものがオタク文化である。私がオタク文化に多大な影響を受けていることも事実ではあるが、それ以上に工芸とオタク文化は大変類似したものであると考えている。たとえば、工芸作品とオタク文化の中核の一つである模型を造形的な面から比較すると、視覚のみならず触覚にまでおよぶほど細密な表面の造形、ある一定の型や枠から逸脱しない、しかし一方でそれをずらすことに美意識を認める造形(内へ広がる造形意識)、「みたて」としての造形、コンセプトの薄弱性(素材や技術の重視)などの類似点があげられる。アニメや漫画の制作が分業されることが多い点も工芸に類似している。また、工芸において道具が手段ではなく美の対象であるという目的に近づいていくことはオタクの精神そのものである。たとえば茶道では茶道具はお茶を点てる手段以上に美の対象という目的に近くなり、電車オタクにとって電車は移動する手段以上に美の対象という目的に近くなる。

 さらに私が注意したいのは、以上の類似点のみではない。サブカルチャーとしてイデオロギーや社会の大きな価値観に比較的左右されにくい状況にあったオタク文化はそれらが機能しにくくなったポストモダン以降、急速な発展を遂げてきたのは周知の事実である。同時期、芸術において、ダダやもの派、パブリックアートなど「非芸術」を旗に掲げ、従来の芸術の価値観を突き崩し、芸術を大衆のもとへ引きずり降ろそうとする動きが盛んに起こった。つまり、芸術を日常生活を起点とした工芸の位置まで降下させるという動きである。ポストモダン状況下におけるこのオタク文化の発展と芸術の工芸的なものへの傾倒は偶然の一致であるとは考えにくい。人々はイデオロギーが有効な機能を持たなくなった戦後、個人のそれぞれの小さな、しかも日常生活から決して遠くない等身大に近い物語の存在に気付いたのである。

 そしてポストモダンの終焉を目前にする現在、オタク文化はジャパンクールとして世界的な広がりを遂げ、インターネットの普及により高度なグローバル化の中にある。個人それぞれの小さな物語はその多様化をみせつつも物語を共有する人々と複雑に繋がり、その繋がりはイデオロギーを超え日常を起点とした大きな物語に日々成長していく。芸術もまた工芸的な傾倒のもと、人々を繋げ日常を共有する大きな物語つまり理想を作り上げてくれるのではないだろうか。少なくとも私はそう信じたい。



参考文献
東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』 2007年 講談社

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』 2008年 早川書房

岡田斗司夫 『オタク学入門』 1996年 太田出版

奥野憲一『KOUGEIの素姿 ー現代工芸の考え方ー』 2009年 神無書房

奥野卓司 『ジャパンクールと江戸文化』 2007年 岩波書店

北澤憲明 『アヴァンギャルド以降の工芸 「工芸的なるものをもとめて』 2003年 美学出版