「キッチュの系譜-染織作品制作の視点から」

第26回民族藝術学会大会にて研究発表 (2010年4月25日 江戸東京博物館)

 

 

要約

 

1.キッチュの解釈


アブラハム・モル、『キッチュの心理学』、万沢正美訳
 キッチュという言葉が新しい意味で使われ始めたのは、1860年ごろのミュンヘンである。南ドイツで広く使われたこの言葉は、「かき集める、寄せ集める」といった意味を表すのだが、さらに狭い意味では、「古い家 具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味で使われていた。そして、キッチュという言葉から派生したverkitschenという語は「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」といった意味につかわれていた。それ故、キッチュには「倫理的にみて不正なもの」、「ほんものでないもの」という意味あいが含まれていた。
 また悪趣味のことを「キッチュともいう」として暮沢剛巳が以下のように解説している。


暮沢剛巳、『現代美術のキーワード100
  芸術の分野においても、悪趣味は長らく否定の対象であった。批評家クレメント・グリーンバーグは1939年に「アヴァンギャルドとキッチュ」を発表したが、この高名な論文の中で、彼は正統派のモダニズム絵画を高級芸術として擁護したのに対して、キッチュな作品は唾棄すべき低級芸術や大衆芸術であるとして痛烈に批判した。(中略)第二次世界大戦後、この認識はにわかに変化する。工業化の進展に伴い豊かな消費社会が実現されたことによって、正統派のモダニズム芸術が今までのような拘束力を持たなくなったこと、また社会の変化に対応した新たな表現様式を求める声が高まったからである。

 

 ポップアートが流行するなか、芸術分野においてもキッチュに肯定的な意味が見いだされるようになった。日本においても石子順造をはじめ様々なかたちでキッチュが語られ、大衆芸術の中にキッチュの肯定的な評価がなされてきた。しかし依然、キッチュには否定的なイメージ が付きまとい、広辞苑(第六版)によると「①まがいもの。俗悪なもの。②本来の使用目的から外された使い方をされるもの。」とされている。
  

 キッチュの解釈についてインターネットのウイキペディアから抜粋してみる。(ウイキペディアを学術的に引用することに問題が指摘されているが、一般的な解釈の例として示した)

 俗悪、異様なもの、毒々しいもの、下手物(中略)複製技術の発展した近代・現代の、大量生産された工芸品などに見いだせる(中略)。 「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」(中略)赤、緑、青、黄、ピンク、金、銀などのどぎつい色が特徴。

 

 翻訳書では通俗物(クレメント・グリーンバーグ、『近代芸術と文化』、瀬木慎一訳、紀伊国屋書店)、いかもの(ハロルド・ローゼンバーグ、『新しいものの伝統』、東野芳明・中屋健一 共訳、紀伊国屋書店)、キワモノ(マーシャル・マルクハーン、『機械の花嫁』、井坂学訳、竹内書店)、俗悪(スーザン・ソンターグ、『反解釈』、貴志哲雄訳、竹内書店)などとされている。
  

 その他、キッチュについて書かれた例を抜粋してみる。


クレメント・グリーンバーグ、『グリーンバーグ批評選集』、藤枝晃雄訳
    「キッチュは、現代生活におけるみせかけにすぎぬもの全ての縮図である。」


ヘルマン・ブロッホ、『崩壊時代の文学』、入野田真右訳

    「キッチュとは芸術内の悪そのもの」

 

アブラハム・モル、『キッチュの心理学』、万沢正美訳

  「キッチュはやさしく愛想が良い。永続的であり、普遍的である。われわれの日常的な生と同じレベルにあって、無駄な努力など要求し ない。ただ、現代社会に生きるために必要な精神的な体操をしなさいと言うだけである。キッチュは『健全』(!)であり、絶対的な芸術のもつあの犯罪的な過激さへの傾向からは免れている。その意味で、大衆化していく宗教に似ていると言ってもいい。」

 

石子順造、『キッチュ論』
    「キッチュは呪術性、実用性などの要素をふくみ、美的でありながらいっそう倫理的で、個別的には礼拝的価値の対象でありながら一般的な日常生活、行為のありようの様式であり、時代とともに生まれまた消えながら、共同幻想をあやうく自己幻想に収斂させようとするメディアとしての力学構造を持った表現全般の呼称である」

 

池田龍雄、特集キッチュ-巷の芸術」、『彷書月刊』

 「キッチュの本質はあくまでも『ずれたもの』-ずれようと作為的にずれるのではなく、自然にずれてはみ出しおちこぼれたもの」

2.キッチュの系譜

 キッチュには「まがいもの」という意味がふくまれるが、まがいものであるにも関わらず、本物にもひけをとらない迫力やエネルギーを感じることができる。それらはいったいどこからくるのか。これを探るために「権力者」と「民衆」、「ヒーロー」と「KAWAII」をキーワードにキッチュの系譜を考察した。「権力者」と「民衆」はキッチュを生み出す階層として考えられる。また「ヒーロー」と「KAWAII」は男性性と女性性を背景にした関係があると考えられ、庇護する/されるという依存関係がみえてくる。しかし、たとえば民衆の中の権力者意識や、権力者にあらわれるヒーロー性のように、キッチュには多面性も認められる。これらのキーワードだけではキッチュのすべてを系統づけることはできないが、少なくとも新しい傾向のキッチュをより深く理解するのに有効ではないかと考える。
 近年の若者の風潮にネオテニーが指摘されるようになった。ネオテニーとは幼形成熟を表す言葉で、高橋龍太郎によれば「幼形を保ったまま性的にも成熟してしまうような変態過程」をいう。つまり人間社会においては、大人になれない大人たちをあらわす。ネオテニーは高度成長期以降のモラトリアムやパラサイト、アダルトチルドレン、引きこもりなどの現代社会現象の要因としてあるとおもわれる。このネオテニー世代を中心にオタク文化や少女文化は急速に発展した。そしてこれらの文化と深い関係をもつ「ヒーロー」的キッチュと「KAWAII」的キッチュがより顕在化するようになり、ジャパンクールとして海外にまで影響を及ぼすようになった。このようなネオテニーの影響をうけたキッチュの新しい展開にわたしは着目して「ヒーロー」と「KAWAII」をキーワードとして考察すれば、その系譜が明らかになるのではないかと考えた。
 「KAWAII」はフランスをはじめ世界各国で国際語として使われている(櫻井孝昌『世界カワイイ革命』PHP研究所、参照)。それゆえアルファベット表記を用いた。また、本来形容詞である「KAWAII」は少女文化に深く根ざしているため、文化的な意味合いを含めて名詞的に扱ってほかのキーワードと並列させた。 

3.「権力者」的キッチュと「民衆」的キッチュ

 「権力者」と「民衆」はキッチュを生み出す階層として考えられる。キッチュの迫力やエネルギーはあこがれへ向かうベクトルのようなものからくると考える。
 「権力者」と「民衆」をキーワードにキッチュ的なものの系譜をあげてみた。

 

・「権力者」的キッチュ
 宗教絵画、皇族の衣装、東大寺の大仏、三十三間堂の千手観音、日光東照宮、金閣寺、城、金の茶室、帝冠様式の建築(愛知県庁な ど)、儀装馬車、高御座、軍隊の勲章、校旗、リムジン、など

 

・「民衆」的キッチュ
 派手な長襦袢、ツギハギの着物、歌舞伎、遊郭、祭りの衣装や道具、銭湯の富士山、大漁旗、霊柩車、鯉のぼり、見世物小屋、お土産品(ペナントなど)、遊園地、ディズニーランド、パチンコ屋、ラブホテルなど

4.「ヒーロー」的キッチュと「KAWAII」的キッチュ

 「ヒーロー」と「KAWAII」は男性性と女性性の関係を背景にして、庇護する/される依存関係があるとおもわれる。石子は「キッチュは、理念としてではなく、たしかに抜きがたい生活の一様式として、まさに現実と密着しているがゆえに現実を超えようとする想念の運動をつつみとって生成(werden)される。このとき現実のイメージは、イメージの現実に転倒されようとして表現となる」という。つまり、イメージ化された架空の現実にあこがれてキッチュ的な表現がうまれると考えられる。仮にこのイメージ化された架空の現実を「イメージとしてのホンモノ」とすると、「ヒーロー」と「KAWAII」は、それぞれの「イメージとしてのホンモノ」へ向かいベクトルを発生させる。このときキッチュ的な造形があらわれ、同時に迫力あるエネルギーが放たれるのではないだろうか。
 前述したように高度成長期以降、ネオテニー世代がうみだす「ヒーロー」的キッチュと「KAWAII」的キッチュは顕在化する。高橋はネオテニー化した日本の若者を「繊細で傷つきやすく、脆いくせに暴力的で、エネルギーが溢れているかと思うと倦怠に満ちる」と分析する。このようなネオテニー世代を中心にオタク文化や少女文化が発展した。そしてアニメやマンガやギャルの風俗などにあらわれる「ヒーロー」とKAWAII」は子どものみならず大人(大人になれない大人)にまで浸透するようになり、キッチュ的なものは日常にあふれだした。「ヒーロー」と「KAWAII」は性差を際立させつつも、童貞・処女羨望をおもわせる幼形成熟を示す、これまでにみられなかったキッチュ的なものをうみだしたと考えられる。さらに「ヒーロー」と「KAWAII」を複合したキッチュもあらわれてくる。たとえばアニメの「美少女戦士セーラームーン」シリーズ(19921997年、テレビ朝日系列で放映)や「プリキュア」シリーズ(2004年~、テレビ朝日系列で放映中)では「かわいいヒーロー」なるものが活躍する。これらのアニメは「ヒーロー」の男性性と「KAWAII」の女性性をあわせもちながら、しかし明らかに女の子としてのものであり、女性性は衣裳や武器などに多分にあらわれている。このように男性性と女性性を一体化させて性差を際立たせるというキッチュもうまれた。
 ネオテニーにより、これまでにはみられなかったキッチュが展開したと考えられ、当研究発表では試みに「英雄」と「ヒーロー」また「かわいい」と「KAWAII」を区別してそれぞれの系譜をたどってみた。「英雄」と「かわいい」はネオテニーの影響をうける以前のキッチュ、「ヒーロー」と「KAWAII」はネオテニーの影響をうけた新しいキッチュとして区別した。カタカナ(外来語)とアルファベット(国際語)を用いた後者はジャパンクールとして広く海外まで及んでいった。「ヒーロー」と「KAWAII」は「幼形成熟」を、「英雄」と「かわいい」はたんなる「幼形」と「成熟」を示すキッチュ的な造形のあらわれとして考えられる。

 

・「英雄」的キッチュ
 戦国武将の鎧兜や陣羽織、戦争の英雄がプリントされた子どもの着物、デコトラ、おもちゃの武器など

 

・「ヒーロー」的キッチュ

 特撮ヒーローやマンガやアニメに登場するロボットや乗り物、怪獣、超合金ロボット、ビジュアル系バンドなど

 

・「かわいい」的キッチ

 ツギハギの子ども服(百徳着物)、姉様人形、嫁入り衣裳、おもちゃの化粧道具、文化人形、雛人形など

 

・「KAWAII」的キッチュ

 デコ電(デコレーションした携帯電話)、少女向け雑誌、ハローキティー、宝塚歌劇、ロリータファッション、ゴスロリファッション、ギャル、学校の制服など

5.自作にみるキッチュ

 わたしの作品は、「権力者」、「民衆」、「ヒーロー」、「KAWAII」のキッチュがすべて複合的にからみあう作品である。なかでもとくに「ヒーロー」的キッチュが顕著にみられる。わたしが影響を受けたものの一つに日本のアニメ、マンガ、特撮などのサブカルチャーがある。つまりネオテニーの影響下にある「ヒーロー」的キッチュがあらわれた作品といえる。また、わたしの作品では赤色を多用している。赤色はキッチュ的なものに普遍的にあらわれるが、とくにわたしの場合は「ヒーロー」的なキッチュのものではないかと考える。アニメ、マンガ、特撮に登場するヒーローは、ウルトラマンシリーズや特撮ヒーローシリーズの中心的存在であるレッド、機動戦士ガンダムに登場する主人公のライバル的存在であるシャア・アズナブルの乗るモビルスーツ(ロボットのこと)をはじめ、赤色をメインカラーにしたデザインが多い。マジンガーZなどのスーパーロボットシリーズでも胸など目立つ部分に特徴的な赤色のデザインが施されている。子どもの頃にあこがれた、まるでヒーローの乗り物のようなスーパーカーも赤色だったことが多い。赤色はヒーローを象徴する色としてわたしたちネオテニー世代に潜在的に刷り込まれているのではないだろうか。
 わたしは正義の味方になることを夢見る。わたしは幼いころ架空のヒーローを想像し、それを描いて部屋に飾っていた。わたしの制作の原点はそこにあり、それがキッチュといわれる造形になっていった。「イメージとしてのホンモノ」はまがいものにもかかわらす、人々はそれを求め続ける。その生きざまに人間のいきいきとした生命力を感じることができる。そしてわたしの作品も、いきいきとした生命力を放ち続けるように今後も制作をつづけていきたい。


参考文献
石子順造『キッチュ論』1986年 喇嘛舎
岡田斗司夫『オタク学入門』1996年 太田出版
暮沢剛巳『現代美術のキーワード1002009年 筑摩書房
櫻井孝昌『世界カワイイ革命』2009年 PHP研究所
鶴見俊輔『限界芸術論』1967年 勁草書房
アブラハム・モル『キッチュの心理学』万沢正美訳 1986年 法政大学出版
クレメント・グリーンバーグ『グリーンバーク批評選集』藤枝晃雄編訳 2005年 勁草書房
ヘルマン・ブロッホ『崩壊時代の文学』入野田真右訳 1973年 河出書房新社
『ネオテニー・ジャパン―高橋コレクション』内田真由美・児島やよい企画監修 2008年 美術出版社 
「特集キッチュ-巷の芸術」『彷書月刊』19866月号 弘隆社